教員採用試験対策≪教職教養日本教育史②≫近代教育制度を理解する

教職教養(教員採用試験)

はい、それでは日本教育史の第2回です。

第1回は、日本教育史上で有名な人と業績を扱いましたね。

今回(第2回)は、明治期~第二次世界大戦敗戦前までの制度史を行います。

第二次世界大戦後の民主化政策としての教育制度改革も出ないこともないのですが、他科目で出題されることが多いかなぁと分析しています。具体的には、教育原理という科目内の学習指導要領の変遷などに付随して出題されたり、教育法規で教育委員会の制度を聞く際に新旧制度を分けて理解しているかであったり、で問われているということです。したがって、本記事では、教育史でしかでないであろう日本の教育制度史を扱います。

ごちゃごちゃしてくる領域ですので、なるべく整理に役立つ記事にしていきます!

問題を解くための仕分け方法

ではまず、制度史を学ぶにあたって、出題頻度に合わせて次のような力点をおいて説明をしていきます。

1)明治期①(1890年の教育勅語発布まで)

→ここでは、学校制度を整えるまでの紆余曲折を概観します

2)明治期②(教科書制度の変遷)

→最後に国定教科書となるまでを概観します

3)明治期③(1890年の第二次小学校令~明治終了まで)

→義務教育制度が確立し、各教育機関も充実している様子を概観します

4)大正・昭和期(審議会とその決定)

→教育制度改革をになった審議会名とその決定内容を扱います

明治期①(1890年の教育勅語発布まで)

この時期は、2つの事柄に着目します。

1つは、学校教育制度をどのようにつくっていくかです。もう1つは、国民道徳をどのように育んでいくかということです。分けてお話ししましょう。

学校制度の確立

【年表整理】

1871(明治4)年  文部省設置

1872(明治5)年  「学事奨励に関する被仰出書」→学制発布(A),文部省管轄の師範学校設立

1877(明治10)年 東京大学設立(東京開成学校と東京医学校統合)

1879(明治12)年 教育令(自由教育令)発布(B)

1880(明治13)年 改正教育令発布(C)

1886(明治19)年 学校令発布(D)

【解説】

Aについて

明治新政府は殖産興業や富国強兵を目指した一連の政策を行うことを志向していました。その時、必要となるのが人材です。だからこそ、近代学校教育制度の確立を目指したわけですね。このとき、体系だってどのように学校制度をつくるかについて示したのが、Aの学制です。

学制には、全国8つの大学、256の中学校、5万以上の小学校設置を目指す壮大なものが示されていました。ちなみに、小学校は上等・下等おのおの4年、中学校が上等・下等おのおの3年ですから、6歳からスタートして大学に入るのは20歳というものです。現代とはかなり制度が違いますよね(そもそも、高等学校が考えられていないわけですから)。

それから、Aの被仰出書は、福沢諭吉ら文明開化を支えた人々と同様の考えが反映されています。すなわち、教育は自身の立身出世のために行うのであり(個人主義)、詩章記誦を奔るのでなく実学を重んじる(功利主義)を特徴としていました。また、四民平等を反映して国民皆学です。このように、明治の初期は国家主義を押しつけでない文脈で教育を奨励していた点は見失いやすいので気をつけましょう。

Bについて

田中不二麿(ウィキペディアより)

さて、学制に基づく教育制度は普及したのでしょうか。これは、1878年の就学率が4割程度にとどまっていることからも、YESとは言い難いものだったでしょうね。

原因は、授業料徴収(親としては農作業を行う働き手を失うし、逆にお金もかかる)・教育内容(寺子屋のような庶民生活に密接に関わるものではなかった)・旧士族が平民と机を並べたくないから、といったものです。

そこで、モルレーというアメリカ人からアメリカ教育行政を教えてもらい、田中不二麿が、自由主義的で地方分権的な教育を企図した教育令をつくりました。この教育令を、その性質から自由教育令といいます

大きな変更は、学校の設置者が町村単位となり、就業年限を毎年4カ月ずつ4年間とするというものでした(学制は上等・下等合わせて小学校は8年間でした)。

このように規制緩和した結果、どうなったかといいますと、公立学校の減少とさらなる就学率低下を生みました。そりゃそうですよね、町村ごとの財力など考えれば学校を整備できないところも出ます。しかも4カ月しか運営しないなら授業料収入は大打撃です。こうなると学校の設置や維持は難しくなるでしょう。となれば、通いたくても学校がないから通えないという事態を生むはずです。

Cについて

自由教育令の失敗を受けて、早々に政府は改正教育令の発布を行います。ちなみに、この当時の世相は自由民権運動が盛り上がっていました。政府はこれを抑えなくてはならず、前年には国民道徳強化を狙って教学聖旨(後述)も出されていました。この風潮の下、改正教育令は国家による教育の介入・干渉を行うことが明確化されました。

また、修身を科目の筆頭におくなど重視しました。さらに、小学校の修業年限を3~8年の範囲としつつも、その3年は就業義務であるとしました。授業も32週にわたって行うよう規定されます。このように、自由教育令からかなり変更されたのが、改正教育令です。

この2つの教育令の違いは頻出ですので、間違えないようにしましょう

Dについて

学校令は、そういう法令があるのではなく校種別の教育法規全般を指して呼ぶものです。すなわち、小学校令・中学校令・帝国大学令・師範学校令の4つの束を指して学校令と呼んでいるのです。この法令は幾度か改正していきますが、終戦近くまで近代日本の教育制度の根幹を担うものです。

制定者は初代文部大臣森有礼。では、校種別にみていきましょう。

森有礼(ウィキペディアより)

ア)小学校令

4年間が義務教育であるとし、法令上はじめて「義務教育」という言葉を用いました。ただし、いわゆる保護者が通わせなくてはならない「道義上の責任がある」意味での義務に近い意味合いです。

イ)中学校令

→12歳以上を入学資格とする修業年限5年の学校。実社会に出るための実用的教育機関であると同時に、上級学校進学の準備をするという2つの目的が課された学校でした。

ウ)帝国大学

→この時点では東京大学のみが帝国大学(したがって、名称も帝国大学です)だったので、覚えておきましょう。

エ)師範学校令

→この法令に基づき、高等師範学校(東京に1つ)、(尋常)師範学校(府県に1つ)が運営されました。教員の養成所ですね。現代の防衛大学校とか海上保安学校みたいですが、師範学校の生徒は、学費・寮費などが支給されました。ただし、卒業後は一定期間の教員服務義務がありました。貧しい家だけど学びたいという人は中学校よりこちらを選んだといえますね。なお、教育方針には歩兵式体操など軍隊式教育的なものがあったようです。

→ちなみに、森有礼の教師三気質論として「順良・信愛・威重」があるので、ついでに覚えておきましょう。

国民道徳の創出・定着への道

1879(明治12)年の教学聖旨と1890(明治23)年の教育勅語をおさえます。

前者(教学聖旨)は、天皇の侍講であった元田永孚がまとめました。行き過ぎた欧化主義の批判と裏返しにある儒教的道徳の尊重、小学校で忠孝の大義をしっかり教えるなどが柱です。当時は、自由民権運動抑え込みの必要性と自由教育令批判の声が大きく、伊藤博文など一部が教学聖旨に反対したものの取り入れられる結果となりました。

後者(教育勅語)は、天皇が臣民である国民に語りかける形式で、家族国家観による忠君愛国主義と儒教的道徳を示したものです。第二次世界大戦前までの日本における国民道徳の支柱となったものですね。

元田永孚(ウィキペディアより)

明治期②(教科書制度の変遷)

教科書は学制発布当時、自由発行・自由採択でした。そこから、以下の経緯をとります。

1881(明治14)年 開申制  教科書の届出を求めるもの

1883(明治16)年 認可制  届出だけでなく認可まで必要

1886(明治19)年 検定制度 検定に合格した教科書だけが使えるというもの

1902(明治35)年 教科書疑獄事件

1904(明治37)年 国定制度 文部省が著作を有するものを使用する

検定制度は森有礼文相下ですね。教科書疑獄事件とは、検定合格をもらいたい出版社が採択委員に賄賂する典型的な贈収賄事件で、40府県200名以上が検挙される大事件を指します。この不祥事から、いっそのこと国定がよいだろうとなったわけです。したがって、政府が思想統制を目的としてなどと国定制度切り替えを理由づけている選択肢は誤りになりますので、注意しましょう。

ちなみに、戦後は検定制度に戻っていますよね。

明治期③(1890年の第二次小学校令~明治終了まで)

校種ごとに追っていきます。ただし、師範学校においての出題はほとんど見られないので割愛します。

小学校

義務教育期間の年数変遷を覚えてください。小学校令第一次から4→3→4→6ですよ!

1890(明治23)年 第二次小学校令

尋常小学校は3or4年、高等小学校は原則2or3年としたので、義務教育期間は3年となりました。

1900(明治33)年 第三次小学校令

尋常小学校を4年に統一します。したがって、義務教育期間は4年間となりました。大きな変更は、なんといっても授業料無料が整備されたことです。これにより、60%台半ばの就学率が1905年には97%を超えるまでになりました。

1907(明治40)年 第三次小学校令の一部改正

義務教育期間を6年としました。

中学校を含めた中等教育について

1899(明治32)年の新しい中学校令をまずおさえます。ここでは、1886年の中学校令で制定された中学校を尋常中学校とし、法令の対象をここにしました。そして、高等教育進学の予備機関としての性格が強くなるよう整備しました。

なお、中等教育にあたる学校は他に「高等女学校令」に基づく高等女学校と、「実業学校令」に基づく実業学校が設置されています。

したがって、現代に生きる我々には実感が乏しいですけど、小学校を卒業したら、大学のような高等教育を受けるつもりで尋常中学校にいくグループと、中学レベルの学習が終わったら就職するつもりで実業学校に行くグループ、はたまた、教師になるために師範学校へ行くグループなどに分かれていたということです。こういう教育制度を複線型といいます。戦前は複線型(ただし、1943年の中等教育令では単線型へ)、戦後は単線型とよくいわれるのはこういうところからです。

高等教育について

1894(明治27)年に高等学校令ができて、高等学校ができます。

それから、1897(明治30)年に京都帝国大学、1907(明治40)年に東北帝国大学、1910(明治43)年に九州帝国大学が新設されるなどします。

そして、現在でいえば私立大学はこの時期、法令上は専門学校でしたので「専門学校令」が対象となります(大学と称すること自体は可能でした)。例えば、新島襄の同志社英学校・大隈重信の東京専門学校・津田梅子の女子英学塾などですね。

大正・昭和期(審議会とその決定)

大正・昭和期は以下の審議会における教育制度の整備と拡充が教員採用試験の頻出です。

1)臨時教育会議(1917~19開催、寺内正毅→原敬内閣・岡田良平文相下)

2)文政審議会(1924~1935開催、内閣総理大臣の諮問機関)

3)教学刷新評議会(1935~1936開催、文部大臣の諮問機関)

4)教育審議会(1937~1942開催、内閣総理大臣の諮問機関)

臨時教育会議

臨時教育会議は、1年半足らずの活動期間中に9つの答申を出すなど旺盛な活動をしました。覚えることは、高等教育の整備です。1つは高等学校令を1918年に一新し、修業年限を7年とし、3年が高等科、4年が尋常科としました。もう1つは、大学の拡充です。従来専門学校扱いの公立・私立を大学として認めるようになりました

文政審議会

文政審議会は14の答申がありますが、覚えるのは、このうちの5つ目の答申です。なぜなら、この答申に基づき、1926年に幼稚園令・幼稚園令施行細則が出されたからです。

教育刷新会議

教育刷新会議は、美濃部達吉の天皇機関説に端を発し、その後高まった日本精神と国体論とに立脚した教育・学問・思想の統制政策および運動を後押しする役割を担った審議会です。ここでの答申を受け、文部省思想局は「国体の本義」「臣民の道」を刊行しています。

教育審議会

教育審議会開催時の首相は日中戦争へすすんだ近衛文麿です。とはいえ、教学刷新評議会と間違えて、刊行本などが決まったときの会議だなどとしないでください。

教育審議会の答申に基づいて、1886年の小学校令以来の小学校は国民学校になりました(1941年)。実現はされませんでしたが、義務教育年限を8年にする規定もありました。また、1943年には単線型にする中等学校令や、就業年数を短くする高等学校令、そして官立師範学校化と就業年数延長を図る師範学校令を出しています。具体的な法令変更まで伴ったので、内容をしっかり覚えておきましょう。

以上、日本近代の教育制度を概観しました。今回もお疲れさまでした。

繰り返し参照いただき、対策に活かしてもらえれば望外の喜びです。

 

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