教員採用試験対策≪教職教養日本教育史③≫近代の人と業績をおさえる

教職教養(教員採用試験)

はい、それでは日本教育史の第3回です。これが日本教育史ラストとなります。

今回は、教員採用試験に問われる明治〜戦前までの教育に携わった方々をおさえます

ほとんどの出題は、大正新教育時代となります。昭和期(戦後含めて)はほとんど出ませんので大丈夫です。

大正新教育を中心に、周辺も目配せして解説していきます。

明治期〜近代教授法の導入〜

明治日本は、近代国家づくりを欧米を範として行っていきます。

それは教育制度だけでなく、学校で行われる授業についても、寺子屋式から一斉授業へという形のように欧米で行われていることを輸入していくことを意味しました。

その輸入をリードしていった人と業績をおさえましょう。

1)明治10年代・・・ペスタロッチ理論の導入

→アメリカの師範学校で学んだ伊沢修二(1851〜1917)、高嶺秀夫(1854〜1910)の2人をおさえます。

伊沢は日本で初めて教育学の教科書的な著作を残していますが、基本的には文部官僚、しかも中級役人でしたので影響は限定的です。数年で部署移動しながら、様々なことに携わっており(音楽教育、台湾を植民地化した際の日本語教育、退官後も吃音矯正の社会事業など)、司馬遼太郎おして「明治教育界の宝石のような人」(by;『街道をゆく』)ではありますが、ペスタロッチ理論の教授法を普及した面はその分薄れます。よって、名前だけで覚えれば十分です(伊沢先生、すみません(^_^;))。

高嶺はその分、帰国後に、東京師範学校および高等師範学校で教員や校長を、女子高等師範学校・東京美術学校・東京音楽学校などでも校長をしており、ペスタロッチ理論の紹介、普及に精を出した人物です。「師範学校の父」とも言われます。発問や対話などを授業で取り入れる形に一斉授業を改めさせる影響力があったわけです。修学旅行の発明者でもあります。どちらかというと、高嶺優先で覚えましょう。

2)明治20年代以降・・・ヘルバルト派教授学の受容

→教育勅語(明治23年)を出して以降の日本は、徳育を教育の目的に盛り込んだと言えます。このとき、ヘルバルトの、教育の目的は「道徳的品性の陶冶」であり、その方法が心理学に基づく教授理論であるという考えは受け入れやすくなります。徳育≒道徳的品性の陶冶、でしょ。帝国大学(東京大学)にも、それを教えられる人(ハウスクネヒト)が招聘され、ヘルバルト派の教授理論の一つであるラインの五段階教授法がブームとなります。

ツィラーの5段階ではなく、ラインの方だというのはしっかり覚えよう!

3)明治30年代以降・・・新教育運動の源流

→ヘルバルト派への批判は、西洋教育史でも管理主義的で注入主義的になってしまうとして紹介しますが、日本でもその動きが起こります。例えば、樋口勘次郎(1827〜1917)は、ヘルバルト派教授法が管理主義的・注入主義的と批判し、児童の自発的な活動を重視するように活動主義を唱えます(著書『統合主義新教授法』)。

→また、元はヘルバルト派教育学をハウスクネヒトから学んだ谷本富(1867〜1946)も、『将来の教育学』『新教育講義』で、フランスのドモランの影響を受けた自由教育の支持を表明しています。ちなみに、谷本には、教採キーワードとして、「活人物」があります。忠孝や武士道精神だけでなく国際的な視野を持つ子どもの育成を主張しています。

谷本富は、ハウスクネヒトの影響を受けたヘルバルト主義の教育思想を前半の著書では発表しているので、その点が問われても「正しい」となりますし、そこから離れて、自由教育や活人物などを取り上げたと言われても「正しい」になるので、注意しましょう!

大正新教育

明治後半から始まっていたヘルバルト派教育学の批判は、欧米の新教育運動の影響を受けるとますます強いものになります。画一的な教育スタイルから、子どもの関心や感動などに寄り添い、自由でイキイキした教育体験の創造を目指す大正新教育(大正自由教育)運動が盛んになります

教採でのポイントは、①誰がどのような教育機関を作って実践したか、②師範学校での工夫、③芸術教育運動、に分けられます。順に見ていきましょう。

誰がどのような教育機関を作って実践したか

A)沢柳政太郎(1865〜1927);成城小学校

→彼は元は文部官僚。官僚で初めて東北大学や京都大学などの学長にもなった人物。退官後に、「個性尊重の教育」「自然と親しむ教育」「心情の教育」「科学的研究を基礎とする教育」を目標に成城小学校を創設している。一時期、ドルトンプランを導入したというのもキーワードとして頻出

→著書は『実際的教育学』『時代と教育』が有名。

 

B)赤井米吉(1887〜1974);明星学園

C)小原国芳(1887〜1977);玉川学園

→B・Cで取り上げた両名は、成城小学校で教員経験を持つ。ここを経験した後、自分の理念を持って学校を創設しているというわけ。

小原国芳も参加しているもので、有名なのが、八大教育主張です。

1921年に「教育学術研究大会」において公演した八人のものです。試験に時々出ますから、挙げておきます。色付きのは覚えよう。

樋口長市「自学教育論」  ・河野清丸「自動教育論」

手塚岸衛「自由教育論」  ・千葉命吉「一切衝動皆満足論」

及川平治「動的教育論」  ・稲毛金七「創造教育論」

小原国芳「全人教育論」  ・片上伸「文芸教育論」

D)羽仁もと子(1873〜1957);自由学園

→羽仁もと子といえば、家計簿の創設者だったり、女性初のジャーナリストだったりというのをイメージする人も多いかもしれませんが、「真理はあなたたちを自由にする(ヨハネによる福音書)」からとられた自由学園の設立者でもあります。

 

E)野口援太郎(1868〜1941)ら;池袋児童の村小学校

→大正新教育の頂点ともいわれる学校。時間割もない、子どもの興味関心をもとにその日の学校活動が開始されるような内容を持っていました。

師範学校(付属含む)での新教育実践

師範学校といえば、将来の教員たちが通う学校です。その付属にも、実習等でこの教員の卵たちが集います。そういった場所で新教育の実践をすれば、その学生が巣立った後に教育現場で新教育を自ら試す・・・・・・という循環が期待できます。

まぁ、そのように考えたのかは分かりませんが(笑)、師範学校でも、付属小学校なんかを舞台に新教育実践が行われたわけですね。3つおさえちゃいましょう。そのうち2つ(①②)が八大教育主張と重なります。

手塚岸衛→千葉県師範学校付属小学校で自学自習を主軸においた自由教育を展開した。

及川平治→兵庫県明石女子師範学校で分団式動的教育法を展開した

木下竹次→奈良女子高等師範学校で合科学習を実践した

芸術教育運動

これは3つの動きをおさえましょう。

①1918年『赤い鳥』の創刊

鈴木三重吉による。新しい児童文学を提示して子どもの感性に応えようとした。

→ちなみに、参加者は芥川龍之介・泉鏡花・小川未明・北原白秋・高浜虚子などの一流の文筆家です。山田耕筰みたいに音楽家も参加してますけどね。

 

自由画教育

山本鼎が1918年に「児童自由画の奨励」という講演を契機に流行りました。山本鼎といえば版画という造語を生み出し、日本画や洋画と並ぶ独自の芸術だと言った方ですし、クレパスの考案者でもありますよね。

 

随意選題主義(自由作文)

芦田惠之助の試み。彼はその後、のちの昭和期に盛んになる生活綴方運動の先便をつけたことでも知られる。まぁ、生活綴方運動といえば小砂丘忠義、野村芳兵衛の『綴方生活』も有名なのでついでにおさえておきましょう。

 

以上、日本教育史の出題されそうなところを全3回でおさえました。

この知識を基に、ぜひ過去問題などを問いてみて下さい。9割方の範囲をおさえているかと思います。

残りの1割に当たる新しい人や制度の言葉は、出た時に覚えるようにしましょう。

これで、教採は乗り切れると思います。頑張って下さい、応援しています。

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