教員採用試験対策 教職教養 西洋教育史④(19世紀)

教職教養(教員採用試験)

西洋教育史、全5回中の第4回を始めます。学習のポイントは、西洋教育史の第1回をご覧ください。

重要度は、赤太字&黄色マーク赤細字・黄色マーク赤字黄色マークの順で重要です。

第4回は、19世紀、特にその中頃までを扱います。今回は、ヘルバルトヘルバルト派フレーベル頻出人物です
ヘルバルトについてはペスタロッチと混同しないよう、しっかりおさえてくださいね!
それでは、本回も一緒に頑張りましょう‼

18世紀末から19世紀半ば頃までに起こった社会変化が、教育に与えた特徴を概観しておきましょう。

第1に、18世紀の啓蒙主義と、アメリカ独立革命やフランス革命を通じ、人々には等しく人権があること、そして全国民への教育の必要性が認識されました。そのため、公教育の準備が始まりました。これが、18世紀末のことです。

第2に、18世紀の終わりごろ、イギリスで産業革命が起こります。イギリスから機械を輸入した西欧の国々も産業革命が起こると、本格的な資本主義社会が到来しました。このとき、生産様式は大きく変わり、都市に労働者を集め、婦人や子どもにも仕事を担わせました

現代では考えられない長時間労働と低賃金の生活苦があるわけですが、彼らが教育を受け生産性高い作業ができるようになる必要もあります。また、第1で述べた公教育を受けてもらう視点も大切です。したがって、教育面では、こうした人々が教育を受けられるようにとの配慮が生じました。

ちなみに、第3として、西欧の国々が帝国主義を採用し、植民地獲得へ乗り出す面の影響も踏まえてください。外を支配するには多くの国民が軍隊業務に従事するなどの協力が必要です。このとき、同じ言語で命令系統を守って動いてもらわなくてはなりません。ここにも、公教育をする必要性があります。

以上の説明から、19世紀は、人権のような理念的にも、産業の担い手や国家体制への貢献的にも公教育が整備されていく時代だと考えておいて下さい。

そのため、以下に取り上げる19世紀に活躍した教育思想家も、その時代要請に応えたり、本人的にはそう考えていたかとは別に利用されたりしました。

以下、教員採用試験で問われる5トピックス9人を紹介します。

フィヒテとフンボルト

フィヒテ(1762~1814)は、「ドイツ国民に告ぐ」という講演(1807)の中で、国民教育による祖国再建や道徳性形成を訴えました。この時期、ナポレオン率いるフランスの支配下にプロイセン(19世紀後半にドイツ統一の中心となる)があり、辛い立場にあったのですが、それを国民を教育することによって打開しようという熱意が感じられます。

そのフィヒテと一緒にベルリン大学を創設したのがフンボルト(1767~1835)です。彼は、この創設も採用試験で問われやすいですが、加えて、初等教育をペスタロッチ主義でいくべきだという考えを持っていた点も知っておきましょう。つまり、調和的発達を目指していたわけです。

フィヒテもフンボルトも、知・徳・美の統一を理想とする新人文主義者です。ここから、フンボルトの、人間成長における調和的発達を重んじる姿勢を受け取ることができます。

ベルとランカスター

ベルランカスターは教育原理でも出題されやすい人物です。それは、助教法(モニトリアム・システム)という教授法を開発したからです。つまり、教授法として教育原理では問われるわけです。教育史としても、この知識は持っておいてください。助教法は、生徒の中から優れているものを助教とし、教師の指示で教える役割をさせることに特徴があります

なぜ、このような教授法が生まれたのでしょうか。その答えは、先に挙げた時代背景にあります。具体的には、産業革命による資本主義社会の到来です。これにより、都市に多くの人が流入してきました。そして、子どももそこで生まれ過ごすことになります。これは子どもたくさんいることを意味しますが、教える人と場所には予算的限界があります。ここから、「教師の手伝いをさせる生徒を使う」という発想が生まれたのです。

ロバート・オーウェン

ロバート・オーウェン(1771~1858)は、高校の倫理系科目において、空想的社会主義者などと紹介される人物ですね。彼は、紡績工場の主として、労働者の就業環境の改善に打ち込みました。この時期の資本家としては珍しい人です。加えて、行ったのが、労働者と子どもの教育で、1816年の性格形成学院が舞台となりました。学校名が体現している彼の有名な言葉に、「性格は環境によって形成される」というものがあります。これは、度々教員採用試験で出題されていますので、押さえておきましょう。

ヘルバルトとヘルバルト派

(1)ヘルバルト(1776〜1841);著作『一般教育学

ヘルバルトは、若い頃にペスタロッチの教育実践を見て刺激を受けています。彼を教員採用試験で得点が取れるように理解する上で重要なキャリアは、24年間勤めたケーニヒスベルク大学の教授として教員養成に携わったことです。ここでの生活から、教員の卵である(=まだまだ臨機応変に対応できない=教育的タクトを有していない)者が、教壇に立って子どもたちに教えるための知識になり得る科学として教育学を構想しました。そして、提唱したのが4段階教授というものです。

4段階教授を理解する上で重要な前提があります。それは、ヘルバルトが教育の方法を心理学(正式には表象力学)に求めたことにあります(ちなみに、教育の目的は道徳的品性の陶冶)。そして、人は、物事を理解するのに、専心(一定の対象に没入し、他の対象を意識の外へ排除していく状態)と致思(「専心」で得た表象を相互に関連づける精神作用)の二段階があることを見出しました。これに合わせて、4段階教授は、以下の段階をとることになります。

明瞭(静的専心):対象の限定によって意識の混乱を排する段階

連合(動的専心):明瞭にされた対象を、すでに習得させていた知識と結合し比較する段階

系統(静的致思):連合を経た知識を体系化する段階

方法(動的致思):以上の段階を経た知識がほかの事象に応用可能になる段階

ということで、4段階教授は、人の認知のされ方を踏まえたもので、この知識に基づいて臨機応変に現場で動くことをヘルバルトは考えたわけです。

なお、教員採用試験で出てくるヘルバルトの名言としては、「教授の無い教育などというものの存在を認めないし、逆に、教育の無いいかなる教授も認めない」があります。

(2)ヘルバルト派

ヘルバルトの学説は大きな影響を与えました。そのため、学派(ヘルバルト派)が形成されました。このうち、著名な二者が教員採用試験では出題されます。

ツィラー(1817~1882)

段階教授法を継承したツィラーは、ヘルバルトの言う「明瞭」を二分し、「分析⇒総合⇒連合⇒系統⇒方法」という5段階教授法を提唱しました。

ライン(1847~1929)

ラインの段階教授法は、従来の段階教授法を展開させました。具体的には、学習者の認知メカニズムではなく、教師がどのように動くべきかを説くもので、「予備⇒提示⇒比較⇒概括⇒応用」としました。

 

ヘルバルト及びヘルバルト学派の考えが支持された背景には、公教育を普及させるという時代要請があったからです。公教育をする上で欠かせない教員を養成する際のメソッドを提供してくれたということですね。

フレーベル

 フレーベル(1782~1852)は、オーウェンの幼児教育実践より数年遅れたものの、幼児教育の場として「一般ドイツ幼稚園」を創設した人物です。この幼稚園という言葉(ドイツ語でいうKindergarten、直訳すると子どもの庭)はフレーベルの造語です。ということは、世界初の幼稚園はフレーベルが創設したということです。
彼は、幼児(人間)の中に宿る神性をどのようにして伸長していけるかを追究しました。そのため、神性宿る児童観に基づいた受動的、追随的な教育を主張し、早期教育を否定しました。そして、遊びや作業を中心にすえ、そのための遊具として「恩物」を考案し、花壇や菜園や果樹園からなる庭を幼稚園の設置をしました。
現在の幼稚園も、お遊戯、お絵かき、生活体験などが重視され、園庭と花壇があることが多いのは、フレーベルのコンセプトが根づいているということを意味しますね。
フレーベルの著作として、教員採用試験で問われるのは『人の教育』です。

19世紀の西洋教育史は以上です。

日本教育史第3回には、ペスタロッチやヘルバルトの影響を受けた日本の教育者が出てきていました。ここで、その記事を振り返り復習するのも良いでしょう。

次回(第5回)は、20世紀の教育です。これで西洋教育史は終了です。お楽しみに〜

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