教員採用試験対策教職教養 日本教育史①(20題で覚える人と業績)

教職教養(教員採用試験)

はい、今回は教員採用試験対策の日本教育史に入って参ります。

この日本教育史ですが、全2回で考えています。

少ないなぁと感じる方もいるかもしれませんね。ただ、教育史自体が課されない自治体もありますし、課されても出題数が少ないことが多いです。したがいまして、さらっとやっていければと考えています。

第1回目の本記事は、人と業績の紹介です。頑張って学んでいきましょう!

教採における日本教育史の出題について

それでは、簡単に出題分析をしておきます。

①江戸より前

→ほどんど出ません。時間ない人は、捨てる選択肢もあるかなと思います。

②江戸期

→いわゆる私塾の創始者と塾名が頻出です。「緒方洪庵で適塾」といったことをセットで覚えましょう。

→後は、藩校の名前も出やすいですね。尾張藩といえは明倫堂というやつです。お? 加賀藩も上田藩も明倫堂だぞって? 勉強されてますね~。そうでないかたも大丈夫。傾向から出やすいところだけ、後で押さえますので、今さっぱりでも何とかなります!

③明治期以降

→どこまで出るかというと、戦後の民主化改革の一環としての教育改革までですね。

→ここは、大正新教育運動を除いては、教育の制度史がでます。教採の教育史って、西洋教育史だったら、ほぼ人と業績ですが、日本教育史は近代日本の制度史がでます。義務教育が無償となったのはいつかとか、いわゆる教科書国定化はいつなのかとか、ですね。ここは、第2回に譲ります(今回は人と業績なので)

→上でもさらっと書きましたが、大正新教育運動は人と業績が出やすいところです。覚えましょう。

古代~江戸期の問題と解答・解説

では、次の問題に取り組みながら学んでいきましょう。

古代~室町まで

問題

Q1)我が国最初の公開図書館を芸亭といい、聖徳太子が設置した。〇か×か。

Q2)綜芸種智院で、民衆教育の始まりといえる教育機会の提供を行った人物は空海である。〇か×か。

Q3)平安時代に、有力貴族が一族の繁栄に有利な人材を育成するためにつくられたのが国学で、律令制度のもと地方に一つずつ設けられたものが大学である。〇か×か。

Q4)別曹して、和気氏は(①  )を、藤原氏は(②  )を設立した。( )内に適語を入れなさい。

Q5)鎌倉時代に、北条実時は、和漢の書籍を多数集めた図書館である金沢文庫を再興した。〇か×か。

Q6)室町時代にあたる15世紀半ばに、関東管領の上杉憲実は、後に海外人から「坂東の大学」と称される足利学校を開設した。〇か×か。

Q7)世阿弥元清は、著書によって芸能教育論ともいうべきものを展開したが、その本の名前を答えよ。

解答解説(赤字に黄色マークが最も大事、次が黄色マーク、青字は追加の覚えた方がよい知識です)

Q1)×

なんでもかんでも聖徳太子が初ではいけませんよ(笑)。そもそも、芸亭は771年という奈良時代も後半に設置されました。設置者は石上宅嗣です。この図書館が公開だからこそ、書物に触れて学べるということで教育史の範疇に入っているわけです。

Q2)〇

中学校位で覚えさせられた「真言宗・高野山・金剛峰寺」の空海先生は、綜芸種智院という貴賤貧富を問わない教育施設をつくっていたのです。覚えておきましょう。なお、同時期の「天台宗・比叡山・延暦寺」の最澄先生は、『山家学生式』で僧侶教育の過程を著しています

Q3)×

国学も大学も奈良時代の律令制整備の際に設けられました。国学が地方に一つずつあるもので、中央に大学が置かれています。この辺り、逆にしやすいので注意してください。私の覚え方は、昔は地方を「〇〇の国」と言いましたよね、だから地方設置は国学、逆に中央はいちいち国を付けないので大学、のように覚えました。ご参考に。なお、「有力貴族が一族の繁栄に有利な人材を育成するためにつくられた」のはQ4の別曹のことです

Q4)①弘文院、②勧学院

別曹は次の4つは覚えて下さい。橘氏の学館院、在原氏の奨学院、藤原氏の勧学院、和気氏の弘文院です。

Q5)×

ちょっと難しいかもしれませんが、問題文に全神経を使ってくださいとの思いで出題しました。金沢文庫と北条実時のセットはOKです。時代も間違ってません。何が違うのかと言いますと、「再興」ではなく私設図書館として開設しているのです。覚える知識は正確に覚えていきましょう!

Q6)×

これもQ5と似た観点の正誤問題「室町時代・上杉憲実・足利学校・坂東の大学と称される」のキーワードは正しいのですが足利学校は憲実が開設したのではなく、再興したものなのです。ひっかけ注意。

Q7)『風姿花伝』(あるいは『花伝書』)

学ぶ過程を9つに分けて記述したり、「型の教育」による基礎があった上で、独自の個性的な型を見いだすように等、現代にも通じることが書かれていますので、教採終われば現代語訳くらいは読んでも損ではないと思います。

ちなみに、室町時代に民衆が使っていた教科書は往来物と呼ばれていまして、『庭訓往来』が有名ですが、これは世阿弥元清のものではありません。

この位までの知識があれば、室町より前は太刀打ちできるでしょう。その位、出題頻度が少ないといえますね。

Olga OzikによるPixabayからの画像

江戸期

では、こちらも問題から。

問題

Q1)幕府直轄の教育機関には、林家の家塾が発展してできた聖堂学問所を、寛政異学の禁を発した老中松平定信が林家から切り離して整備した昌平坂学問所がある。〇か×か。

Q2)岡山県の藩校を閑谷学校といい、郷校を花畑教場という。〇か×か。

Q3)次の5つの藩の藩校を答えなさい。

①米沢藩  ②会津藩  ③水戸藩・佐賀藩  ④長州藩  ⑤熊本藩

Q4)次の漢学系統の私塾①~⑤と関連ある人物の記号(A~F)をつなぎ合わせなさい。

①古義堂  ②蘐園塾  ③咸宜園  ④嚶鳴館  ⑤松下村塾

A 吉田松陰  B 広瀬淡窓  C 細井平洲  D 中江藤樹  E 伊藤仁斎  F 荻生徂徠

Q5)国学系統の塾として、本居宣長の(①   )と気吹屋を開いた(②    )がいる。

Q6)洋学系統の塾である鳴滝塾を開いた人物名を答えなさい。

Q7)町人向けの塾であり、「商人の売利は士の禄に同じ」と説いた人物名と私塾名を答えなさい。

解答解説(赤字に黄色マークが最も大事、次が黄色マーク、青字は追加の覚えた方がよい知識です)

Q1)〇

昌平坂学問所は1797年に正式に幕府直轄となってます。裏返しに言えば、5代将軍綱吉の頃は、林家の家塾を湯島に移して大規模化させただけということです(これが聖堂学問所)。現代風に言えば、5代より前は普通の名門塾、綱吉の頃からいっぱい補助金もらいつつ幕府役人の子弟に特化して教える名門塾となり、1797年に正式な国立の学校になったという感じでしょうね。大事なのは、最初から正式な幕府直轄ではないということ、特に綱吉の湯島聖堂学問所整備の政策に惑わされるなってことです。後、林家は幕府直轄前から直轄後も、大学頭という地位で、江戸の学問的な頂点には変わらず君臨していましたので、その点間違いなきようお願いします。

Q2)×

江戸時代、ざっくりいえば庶民は寺子屋、武士は藩校、ちょい豊かでお勉強する余裕のある庶民から武士だけど藩校に行けるほどの身分ではない子が行くの(中間層)が郷校というイメージを持ちましょう。

それで、岡山県のこの問題は非常にひっかけられるので注意。逆なんです。藩校が花畑教場で、郷校が閑谷学校です。そして、閑谷学校の開設者が熊沢蕃山という一級品に有名人物です。覚えましょう。それから、郷校は、閑谷学校以外覚えなくても試験は乗り切れます。

Q3)①米沢藩は興譲館、②会津藩は日新館、③水戸藩・佐賀藩は弘道館、④長州藩は明倫館、⑤熊本藩は時習館

たくさんある藩校を無理に覚えると、時間だけかかってその割に得点という益には授かりにくい空しい事態を引き起こします。ということで、上の5点に絞って覚えましょう。よく出る5つです。

余裕ある人は、先に述べたように尾張藩・加賀藩・上田藩などで明倫堂があったということと、自身の受験自治体の藩校は覚えましょう。例えば、鹿児島県受ける人は、造土館を覚えておくみたいなイメージです。

Q4)解答は下記。

①古義堂はE(伊藤仁斎)。古典を後代の注釈なく直接精読せよという提唱をされてます。また、仁斎は古学派の一人で、古典の学びを現実に役立てようという考えもあったといいます。古義堂は京都堀川の地にありました。

②蘐園塾はF(荻生徂徠)。古語を理解するには、当時の社会制度や文物を知ることが大切だといいます。こうした古典解釈方法は近代的で先見の明があるなぁと大学時代学んで私も思ったものです。こういう考え方を古文辞学といいます。徂徠のキーワードとしておさえましょう。それから、儒学は個人の道徳的素養ではなく、天下の太平のためだとし、礼楽制度や武士土着論などを論じた『政談』を8代将軍徳川吉宗に提出しています。本も要チェックです!

③咸宜園はB(広瀬淡窓)。「三奪」を特徴とする塾です。何が奪われているかというと、年齢・入塾前の修学状況・生家の家格ですから、かなり平等主義ですね。それから、月一で成績を評価され公表される「月旦表」という特色もあったそうです。成績表のはしりですね……あ、淡窓を恨まないであげて(笑)。

④嚶鳴館はC(細井平洲)。愛知県東海市のマスコットキャラクターにもなっている平洲先生は、江戸に私塾としてこれを開いていますが、逸話がいっぱいの人です。有名なのは、米沢藩主に後になる上杉治憲(鷹山)との師弟関係や米沢藩の藩校興譲館の名づけ親であること、そして尾張藩明倫堂の学長を務めたことですね。はい、でも嚶鳴館は江戸です(笑)。

⑤松下村塾はA(吉田松陰)。解説不要の有名人です。この塾から、幕末の長州藩を代表する高杉晋作や桂小五郎(木戸孝允)などが輩出されるわけです。

Dの中江藤樹は、私塾の名が「藤樹書院」という本人の名前がついているありがたいセットです。王陽明という儒家を尊敬し、知行合一という実践道徳を重んじました

Q5)①鈴屋、②平田篤胤

国学とは、日本古来の考え方や感じ方を究明するものです。言い換えれば、儒教や仏教などの「外来」からの感化を受ける前の日本人固有の道徳や思想を明らかにしようとしています。このうち、本居宣長は、『古事記伝』や源氏物語を「もののあはれ」と評した『源氏物語玉の小櫛』など文献の実証的研究において成果を残しました

他方、平田篤胤の国学は実証的というより精神的ですね。神々の子孫である天皇への服従を「神ながらの道」と主張しています。攘夷運動などに影響を与える思想家だったといえるでしょう。

Q6)シーボルト

洋学関係の私塾としては、他に適々斎塾(適塾)の緒方洪庵、芝蘭堂の大槻玄沢を覚えておきましょう

Q7)石田梅岩、心学舎

石田梅岩によれば、封建制度というのは社会的分業の仕組みなのであり、貴賤ではないとのことです。ですから、問題文のような商人は当時、士農工商という身分制でいうと下だったわけですけど、その仕事で稼いだものは武士の給料(禄)と同じだと主張してくれているのですね。著書としては『都鄙問答』があります。その中には、知足安分(己の身分・職分・持ち分に満足する)を町人の道徳にといった主張や、商人には「先も立ち、我も立つ」という互助精神が大切だと説いていたりもします。

さて、民衆の教化には他に二宮尊徳がいます。併せておさえましょう。彼は、農政指導をしたことでも有名で、報徳仕法がキーワードです。人間がここにいるのは天地・祖先・両親などの広大な徳のおかげなので、その恩に対して報いる行動を取りましょうということです。

文武学校の中庭の写真 https://www.pakutaso.com/20130423107post-2644.html

大正新教育運動の実践家たち

前座

江戸期まできて、いきなり大正かよ~と思われた方もいらっしゃいますよね。人と業績の観点だと、次は大正新教育になるからです。

ただ、ざくっと大正新教育までの流れを説明しておきます。(途中登場してくる海外人の名前がついた教育思想は西洋教育史でお伝えしますので、とりあえず今は「ふーん」と読んでおいてください)。

開国した明治新政府は、欧米の進んだ文明を受け入れるわけですね。国づくりとして。その際、学校制度も取り入れられるわけです。その中には、この学校という箱でどのように子ども達に教えるかということも欧米から受容してくるわけです。

それが、1870年代にアメリカに留学した伊沢修二高嶺秀夫です。彼らは、ペスタロッチ主義の開発教授を先生を養成する師範学校などで流行らせるわけです。これが1880年代のことだとお考え下さい。

その後、1890年代になると、ヘルバルト派の段階教授を受容します。谷本富とかがラインの五段階教授法なんかを紹介して広く普及していくんですね。

ただ、このヘルバルト主義は、本家の欧米でも20世紀の新教育運動で、注入主義的だとか、管理的だとかで批判がなされていきます。当然、日本もその欠点に気づき始めるわけです。谷本自身が後に修正をしてます。また、樋口勘次郎が特に初期の批判者として有力です。

そして、大正時代になると、政治状況も大正デモクラシーの風潮となり、子どもへの教育も自発性・自主性・個性尊重などの気風が重んじられるようになります。欧米の新教育運動に刺激も受けるわけです。こうして大正新教育運動(あるいは大正自由教育運動)が花開くわけです。

この運動は、大抵が子どもに自由で生き生きとした教育体験をさせようとしており、特色ある実践をすべく制約の少ない私立学校での教育実践となりました。そのため、教採で覚えるのは、私立学校の名前・創設者です。次に、芸術教育運動家についてもおさえましょう

問題と解答解説

問題

Q1)①沢柳政太郎、②赤井米吉、③小原國芳の設立した学園を答えなさい。

Q2)師範学校でも大正新教育運動的な実践が見られたが、及川平治・手塚岸衛・木下竹次のうち、八代教育主張に出てこない人物を挙げなさい。

Q3)池袋児童の村の校長をした人物を答えなさい。

Q4)新し児童文学を提示し、子どもの応えた『赤い鳥』を創刊した人物を答えなさい。

Q5)自由画教育の試みをした人物を答えなさい。

Q6)芦田恵之助の試みを俗に(     )作文というか。空欄に適語を入れなさい。

解答解説(赤字に黄色マークが最も大事、次が黄色マーク、青字は追加の覚えた方がよい知識です)

Q1)解答は下記。

①沢柳政太郎は成城学園。「個性尊重の教育」「自然と親しむ教育」「心情の教育」「科学的研究を基礎とする教育」を目標に、1学級30人という現在日本でも羨ましいクラス編成で特色ある教育を行いました。ドルトン・プランの導入なども一時見られました。

②赤井米吉は明星学園。③は小原國芳。

両者とも成城学園での教員経験があり、後に、自分の学校をつくっていったというわけですね。小原國芳は、「全人教育論」という主張を八大教育主張(→Q2)でしていることも併せておさえましょう。

あと、〇〇学園系で、大正新教育運動で有名なのは、羽仁もと子自由学園です。自労自治のため、原則自分たちで給食を作るといったことが現在も行われているユニークな学校ですね。

Q2)木下竹次

木下竹次は奈良女子高等師範学校付属小学校で合科学習を展開した人物です。及川は明石女子師範学校で、手塚は千葉県師範学校付属小学校での実践で有名です。

そして、八大教育主張について。これは、1921年に大日本学術協会が主催した「教育学術研究大会」における8人の講演を意味します。いずれも大正新教育運動を担った人物ばかりなのであり、また教採で時折出るので、以下に8人全てを挙げておきます。

樋口長市「自学教育論」、河野清丸「自動教育論」、手塚岸衛「自由教育論」小原國芳「全人教育論」

千葉命吉「一切衝動皆満足論」、及川平治「動的教育論」、稲毛金七「創造教育論」、片上伸「文芸教育論」

Q3)野口援太郎

時間割もなく、登校時間もなくと、とにかく自由な学校だったようです。池袋児童の村は。すごいですよね。

Q4)鈴木三重吉

『赤い鳥』には芥川龍之介、泉鏡花、小川未明、北原白秋、高浜虚子、山田耕作などが協力したそうです。そうそうたる面々です。

Q5)山本鼎

Q6)(自由)作文

芦田の自由作文はいわゆる随意選題主義でした。子どもが書きたいテーマを自由に選んで書くという、現代おなじみのスタイルですね。

ところで、昭和に入ると、子どもが生活に根ざしたことを作文に書かせ、そこに表れてくる直接間接の知識・技術・徳目・権利意識・意欲・広くはものの見方・考え方・感じ方を指導しようという生活綴方運動が発生していきます。この運動は、小砂丘忠義、野村芳兵衛らによる雑誌『綴方生活』が1929年に刊行される頃には、全国的に盛んになっていました。芦田の自由作文はこの運動の原型づくりを担ったといえるでしょう。

20題で日本教育史の人と業績が主に分かる内容をお伝えしました。お疲れ様でしたーー。

繰り返し問題を解いたり解説を読んで覚えていただければ、試験に役立てられることでしょう。

続編もご期待ください。ではでは

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