教員採用試験 論作文講座②~意見についての心構え~

人物試験(教員採用試験)

教採対策の論作文講座、第2回のはじまりはじまり~。

前回は、大減点となるものをお伝えしました。本日は、論作文の肝である「意見」にまつわるお話です。

論理的な文章のためには、意見から見直すこと

まず、論理的というのは、説明に筋道がとおっているということだとお考え下さい。

要するに、多くの人に「なるほどね」と言わせる根拠を示し、説明がなされた文章を作成しましょうということです。教員採用試験の論作文試験は、試験名に「論」部分がついているので、論理的な文章が要求されます。したがって、この筋道立てた説明(=「なるほどね」の根拠で意見を説明すること)が必要となります。

なるほど〜。

ちなみに、作文部分も試験名からついてますが?

それはどうなんでしょうか。

そこは、第3回で話します。

今回は、論理性にまつわる部分だけとしましょうね(^^)

次に、このような論理性を持つためには、意見の性質が大事だということを伝えたいと思います。

これは、実際、教員採用試験で問われそうなお題で考えてみると分かりやすいので、そうします。

お題は、「生徒指導をどのようにあなたは行うか。考えを述べなさい」にします。対象校種は高校にしておきましすね。

では、以下に3つの意見を載せます。良いものはどれだか分かりますか?

意見A

私は生徒指導をするにあたってはホームルームを有効に活用したい。特に、そこで展開される進路指導を有効に活用したい。また、ソーシャルスキルトレーニングを用いた実践的な指導も取り入れたい。

意見B

私は生徒指導について、多感な高校生を意識して何よりも一人ひとりに寄り添う心で接したい。したがって、ホームルームでのガイダンス機能に期待せず、放課後などに自主的に設ける教育相談を積極的に用いたい。

意見C

私は生徒指導する際、たとえ問題行動を起こした生徒であっても、決して感情的にならない。教育者の目で、その生徒がより成長できるように温かな眼差しをもって接する。どのような生徒も成長したいし、できるのだという熱い心で体当たりしていきたい。

まず、Bはまずいかな、と気づいて欲しかったですが、いかがでしょうか。

Bは第一回で大減点と指摘した現場批判の派生が見られる内容です。具体的には、「ガイダンス機能に期待せず」としているところですね。学習指導要領(法的拘束力がある)では、「ガイダンス機能を図ること」と言っています。それとは方向性が異なっていますので、教育公務員になる上で相応しくない意見だとなってしまいます。

次、問題なのはAと考えましたか? なぜでしょうか?

もしも、「Aの意見はどうしてその取り組みをするのかが書かれていないから」と考えたのであれば、それは意見の部分ではないので批判には当たりませんよ。説明は意見とは切り離して考えて下さい

うーん、そうなると、、、、でも、Cは非常に教育熱心が伝わるし、しかも感情的にならないのは体罰など危険も少なさそうだし、教員らしいから、なんか理由がわからないけど、やっぱりAだ!っとした方、多いのではないでしょうか。

実は、Cは問題なのです。そして、Aが意見として問題がありません(←正解)

なにが、Cのいけないところなのでしょうか。それは、論理的な文章、すなわち「誰もがなるほどとなる」を導くのが困難だからです。言い換えると、Cの意見を序論で述べた後に、本論で説明する時に、「温かな眼差し」「熱い心で体当たり」という解釈が、多分に心象的過ぎて、共感を得られない恐れが高いのです。

実例を出しましょう。担任しているクラスのとある生徒が、カバンからポロっとタバコのケースが落ちたとします。次のX、Yの行動どちらが「温かな眼差し」で「熱い心で体当たり」なのでしょうか。

X;その際、吸っているところは教員が見ていないので、所持に関する懲戒をしながら遵法精神や万が一吸った場合の害などをよく伝えて反省させるという教員行動

Y;実は吸っているのではないかと思い、未成年が喫煙することの害を説き、吸っているなら正直に言って欲しいと関わり本人が自白したので喫煙で懲戒する教員行動

どっちが「温かな眼差し」で「熱い心で体当たり」なんでしょうか。よく分かりません。なんなら、Xは温かな眼差しで、Yが熱い心で体当たりに読めるとしたならば、そもそも「温かな眼差し」で「熱い心で体当たり」は矛盾を孕んでいるのではないでしょうか。

だから、Cのように雰囲気的に良いこと言っても説明が独りよがりになる可能性があるのです。要するに、論理的な文章を作りづらい意見は止めたほうが良い、ということです。

この説明を聞くと、なぜ、論作文で比喩が駄目なのかもわかった気がします。比喩で伝えたいことって、そのたとえに共感できる人とできない人ができるので、説明力が落ちるってことですね。

おっしゃるとおりです。Official髭男dismさんのpretenderの歌詞に「誰かが偉そうに語る恋愛の論理」が「飛行機の窓から見おろした知らない街の夜景みたい」と言っていて、それに私はピンと来たのですが、同僚は「よく分からん」と言ってまして。このように比喩は「論理」にならず、感性に訴えるものとなります。

意見とは偏り。論理性は偏りの正しさを説得するために生まれる

閑話休題。

では、問題ないと言ったAについても解説しておきましょう。

これは生徒指導でホームルームを有効活用したい、進路指導とソーシャルスキルトレーニングを特に行いたいと明確に主張がされています。

そして、これだけを読むと、突っ込みたくなりますよね。

・生徒指導って個別指導もあるよ。ホームルームだけをあえてなぜ取り上げたの?

・その中でも、進路指導を主軸においた理由とは?

・ソーシャルスキルトレーニングは明確に否定はされていないけれど、学習指導要領にもやるように言われてはいないけれど?

のようにです。でも、いいんです。突っ込まれるということは、そこを説明して説得できれば、論理性が担保されうるわけですからね。

皆さんも、今までの人生で、親・先生・友人・アルバイト先の人・恋人などに「なぜ?」と聞かれてきちんと説明ができたときがあるでしょう。例えば、こんな感じ。

親;「なぜβ大学へ行きたいんだ? 数学教員免許が取れる大学なら実家から通えるα大学があるだろう? 」

子ども;「β大学は現役で教員採用試験に合格している率が高い。それに、私の取りたい数学免許に関わる数学教育をしている✕✕先生は、テレビにも出て本もたくさん書いている大家だそうで、私はそういう先生に習いたい。確かにその場合は下宿になる。でも、仕送りに甘えずアルバイトは頑張る。なんだったら、奨学金を借りて教員になった後、コツコツ返すから。お願い、β大学行かせて。」

・・・以下略。

ということで、意見部分だけならツッコミウェルカム!です。

意見を序論で書き、立証するように本論を説明的に書く流れもこうして生まれるのです。

また、少し飛躍してしまいますが、突っ込まれるということは多少なりとも意見というものが偏りを含んでいることを意味します。先の例のように、実家から通えて夢も実現できるα大学へ行けという親の意見には安上がりに価値をおいた偏りが、子どもには有名教員に習いたい、夢の達成率が高いところに行きたいという質に関する偏りがありますよね。

教員採用試験の論作文の意見もそうです。

そもそも、教員採用試験の論作文では、「いじめにどう向き合うか」のような「◎◎の指導をどうやっていくか」という教育実践系(もっとリアルな場面対応含む)や、「信頼される教師とは」のような教師像系などが多く問われますが、ある程度の限定された条件・状況下を設定し、その中で話を書かないと字数的に難しいはずです。この時点で偏らざるを得ません。いじめでいえば、発生抑制にウェイト置くのか、早期発見にウェイト置くのかね。教師像で言えば、誰のどのような目線に対するものなのか、限定が生じるはずです。

この限定に加えて、自身の意見には、取り上げない意見に比べて自説が良いという主張が入り込みますから、やっぱり偏りはできます。

偏りを恐れず、自覚して、読み手に説得的にその偏りが意味あるものだと展開することこそ、論作文の基本線だといえます

今回は、論理的な文章とは何かを考えてみました。そして、説得するには、意見の内容を心情的にしないことを伝えました。また、その内容は偏っても仕方ない、むしろ偏るから説明もできるのだ、という話をしました。

次回は、「論作文の「作文」的要素について」です。お楽しみに~

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